読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

今日も風呂後トイレに行った

※実際はシャワーばかり浴びるし、身になる話は何もない

まったくなんでもない話

してみむとてするなり

平日の朝6時からカレーとかお好み焼きとか、鯖の竜田揚げなんかをわしわし食べる。昨晩のおかずとまったく同じものが並ぶときもあるし、炭水化物の種類すら異なるときもある。食卓とはかくも変幻自在であることを認識している。食卓は自由だし、愛は食卓にあるし、自由とは愛かもしれない。予期せぬ愛に自由奪われるかもしれない。波多野裕文も食卓について歌っていた気もする。ファミリーレコードのマルタとかそのへんの曲。
わが家は「朝はパン、パンパパン」というCMがいくら流れようとも朝にパンは出てこない。多分昔の私が朝はパンだと消化が早いから米がいいとか言ったのだろう。その分昼にパン、パンパパン、おやつにパン、パンパパン、夜もパンのときがあるからパンパパン。もちろん夜にパンのとき、朝は具合が悪くなるほどおなかがすいている。米でも存分に腹は鳴るが。

丼ものやあんかけなど、具と炭水化物が同じ器に乗っていて食べる配分を気にしないといけないものが苦手である。必ず具が余る。厚みこそ違えど米とソースが同じ直径で器におさまっているドリアですらチーズが余る。器の内側の少し焦げた歯ごたえのいいチーズを差し引いてなお、本来米の上にあるべきやわらかいチーズが余る。何が原因なのだろう。空間把握みたいなものがへたくそなのか、エロ同人みたいにいっしょにいこうとかは言わないのでドリアはさすがにうまいこと終わってほしい。でも米が余ることに異様な恐怖心を抱いているので余るのは米であってほしい。盛大に書き損じている。余るのはおかずであってほしい。
前述の通り朝からカレーがいける分、朝からカレーにいけない人よりカレーに遭遇する率が高いのだがもちろん1回も同時に食べ終わったことがなく、いつもルーを余らせては水を飲んでいた。今朝までは。

今朝のカレーはいつもと違った。色が濃かった。デミグラスらしさを感じる色味と、視覚の期待を裏切らないコクだった。一瞬ハヤシか? と思ったが口にしたときのあの刺激はまごうことなきカレーである。ハヤシというとハヤシヤスノリという名前を思い起こすのだがいつになったらJanne Da Arcは復活するのか。中学生当時あれほど夜巣夢を読んでいたことはもう遠い昔のことなので、一瞬自分もサイト運営しようと思ってしまったことは墓場まで持っていきたい。
ハヤシはわきに置きたいがわきに置けるほど嫌いなわけでもないので小わきに抱える。おおよしよし、お歌がじょうずですね。カレーのいつもと違うところにはルーが少ないことも挙げられる。どうせ今日もルーが余るのだろうと思ってルーと米の比率がスプーン上で6:4くらいになるようにしたら3口目でわかった、明らかにルーが足りない。これじゃ絶対間に合わない、味つけ要素のない米のままの米を食べるのはかなりきつい。味つけ要素のない米はなぜか喉に詰まるので若干吐き気を催すタイプである。兄がカラオケでAKBを歌っては吐くという習性があるのでお互い喉が弱いのかもしれない。なお妹はカラオケで泣く習性があるのでメンタル不全といって差し支えない。即軌道修正しルーと米の比率が逆になるようにする。米のままの米が苦手な質ではあるが、同時に紅虎餃子房の油淋鶏1つで米を茶碗の半分やってしまうので味さえあれば口に入れる米の量はあまり問わないのである。油淋鶏って紅虎餃子房くらいでしか食べないんだけどレンコンって入ってるものなの?
結構辛いルーだったので米多めの方がいいかも正解かもと思いながら食べる。なんだか妙においしい。今まで家で出てきたことないカレーだけどなんかめっちゃおいしい。わけわからん感じでおいしい。ルー少ないしこれならまさかの同時完食かなとわくわくしつつも夢中になって食べていたら皿が白いことに気づく。米が余り始めている。勘弁してくれ逆パターンかよ、どっちにしろへたくそかよ。
という夢を見た。
ならよかった。米はスプーン3杯くらい余った。ふりかけをかけるには足りないし、カレーにするにはルーがないし、お茶でごまかしごまかしやったが途中まで同時完食を目指せそうだっただけに妙な不完全燃焼感がある。燃焼感の「焼感」からにおう焼売らしさ、完全に目線がデブなので脂肪燃焼をがんばってほしいところ。買って数回しか履いていないニューバランスのランニングシューズが泣いている。まあ明日の自分ががんばってくれるでしょう。というかまあ体重だけなら標準くらいだし、まだ大丈夫、大丈夫。そのうち自分がどうにかするでしょう、自分で自分に期待しているので他力本願カウントにもならないでしょう。ハヤシをこのまま抱えていれば二の腕引き締まったりしないかなあ。