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今日も風呂後トイレに行った

※実際はシャワーばかり浴びるし、身になる話は何もない

角田光代『八日目の蝉』

本の話

 長らく枕元にあった本。『マザコン』『三面記事小説』を読んであまり得意ではないだろうと思いつつ、なんとなく、でも読まなくてはと感じていた本。
 テレビで放映された実写版のなかの、港のようなところで泣き叫ぶ女のようすを幼稚園児ほどの女の子が見つめるシーンを覚えていた。ふたりの距離のなかには警察がいて、それがどんどん開いていくシーン。

 野々村希和子は不倫相手の子どもを誘拐する。まったく反射的な、衝動による行動であった。東京から地方を転々とし、自分がいつか子どもにつけたかった名前をその子につけ、呼ぶ。何度も心のなかで、声で。
 名前は親から子へ渡される二番目の贈り物である(一番目は命だが、授かるものでもあるので微妙なところ)。いとおしさで抱きしめながら、不安にうちひしがれながら、しあわせの最中にいることを実感しながら、その日の宿に悩み、おむつを替え、離乳食をあたためる間もその名前は繰り返される。何度もなんども、それこそ子どもが母親を呼ぶように。
 希和子が初めて薫を見たとき、希和子の世界はさぞ明るく変わったに違いない。

 ところで「薫」といえば『源氏物語』にも出てくる名前である。そちらの薫もまた、出生に関して親や周囲から隠されてきたことがある。かの光源氏女三宮との間に生まれたと言われ育ったが、実の父は柏木である。
 薫はその名の通りにからだから不思議といい香りがする。香を焚き染めたわけでもないのに、遠くにいても薫がいることがわかる。希和子にとっての薫もそうであったに違いない。眩むほどまばゆく、においたつほど愛らしく、世界には薫が溢れていたことだろう。

 小豆島での最後の日、希和子は港でこう言う、「その子まだ朝ごはん食べてないんです」。
 誰もが泣く名シーンである。
 それまでの生活であれだけ呼んだ「薫」という名前を呼べなくなったシーンでもある。
 希和子は捕まったら抵抗しないことを決めていたのだろう。日々の暮らしでも心のなかに一線を引いて、本当の娘のように接しつつも、本来ならあり得ない八日目が終わり、自分が九日目に進んでしまうことを覚悟していたのだろう。

 だからこそ、希和子が最後に「その子まだ」と他の大人に薫の状況を呼びかけたことを悲しく感じる。その瞬間から希和子は母ではなく、薫の名前もひとつになった。最後に残ったその名前を、希和子は呼べない。

 最後に残った恵理菜という名前を呼ぶのは秋本夫妻である。ただその名前もどれほど呼ばれたかわからない。
 個人的には不倫は非ではないが是でもないのであまり同情はできない。不倫は遊びと割り切るべきもので、どちらかが本気になったらしかるべき責任を取る必要がある。責任を取れないからどちらかが遊びのままで、どちらかが本気になってしまうのかもしれないが。
 知り合いに不倫をしている人がいる。その人は別に交際相手もいるのだが、子どもをつくるならば交際相手とより不倫相手との方がよいと言う(でもふたりは遊びと割りきっているそうだ)。

 どちらも本気で離婚が視野にあるならまだしも、そうでもないのに続けてはよくない。
 責任を取らない男性はそれはもう惜しみない愛情を注いでくれる。責任がないのだから、結婚式の費用をまた捻出するようなことはしない。

 さて、責任といえば希和子はどうだろうか。子どもを誘拐し逃走しながら育てた女はどのような責任を取るべきだろうか。
 刑務所に入ること? 子どもを生めなくなること? 一生犯罪者と言われて生きること?
 自分が希和子であったら、あるいは恵理菜であったら、どんなことをしたらこれまでの年月を許される(許す)だろうか。
 安易に惨めで不幸であればよいと考えるかもしれないが、実際それではなんの足しにもならないだろう。おそらく取れる責任などないのだろう。家ひとつを壊して、責任を取って許してもらおうなど甘いことだと思うのだが。
 いったん考えるのに飽きたので終わり。

余談
 今日3月23日は非常に月が丸い。
 あくまで印象レベルの話だが、この作中には夜出歩く姿が少ないように感じる。薫にとってはよかったことだろう。日中のシーンが多い反面、ふたりの未来はあまり明るくなく、薫が恵理菜に戻ってからは対抗するように夜である。
 異なる気候の中にいるふたりだが、好きになった男性の種類を思うとその根はよく似ている。反面教師だが。

読了日
20160320